毎日暑い日が続いていますね。皆さん体調は如何でしょうか。夏風邪も流行っているようなので、体調管理には十分に気をつけましょうね。
さて、先日お仕事の関係で韓国の方とお会いする機会がありました。
実は私、日本語以外の言葉を耳にするのが超苦手。聞いた瞬間に「分からない(汗)」という心理的プレッシャーが強く働き、その場を逃げ出したくなってしまう性分です。学生の頃学んだ英語すらまるっきり聞き取れず、お酒を飲んでも赤くならないこの顔が、このときばかりは真っ赤になってしまうのです。
そんな私ですから韓国の方とお会いした時も、話しかけられたらどうしよう・・・みたいな心理状況で落ち着かない時間を過ごしていました。
ところが!!!
諸々の真面目な勉強会が終わり晩餐会の時間となりました。最初は緊張していましたが、二次会、三次会と時間を共有していく中でこんなことが起こりました。
すこし距離の離れた席に座る韓国の方とたまたま目と目が合いました。
相手の方がこちらを見ながら杯を手に取ったので、私も杯を手に取り返し、
相手の方が微笑をくれたので、私も微笑みを返し、そして同時にお酒をいただく。
何か言葉を交わしたわけではありませんが、ただそれだけで、お相手の方と心通じ合えたような安心感を感じました。
目は口ほどに物を言う、という諺もありますが、瞳のもつ力って本当に凄いなって思いましたし、言葉以上のコミュニケーションに魅せられた瞬間でした。
皆さんの瞳は、今日は何を語っているのでしょうか。
見城美妃
2018年7月21日土曜日
毎日毎日、ぼくらは。ほんとに。
仕事をしていてもプライベートでも、大小問わず様々なコミュニケーションエラーが起こりますよね。毎日毎日。
その中には言葉が足りなかったり、認識が共有できていなかったり、そもそも共有することあたわずだったり、育ってきた環境が違ったり、言語が違ったり・・
自分が反省することもあるし、くそっ、この人は、なんでっ・・こんなっ・・!とやるせない気持ちになることもあるし。
こうしていると、人間だな、って思いますね。
全然話は変わりますけど、ぼく、「はい?」って聞き返されるのがすごく苦手なんです。特に電話で。
相手「えぇ、そうなんですか(^_^)?」
ぼく「えぇ、そうなんですよ。ははは(^o^)」
相手「へー、それはすごいですね、うふふ(^_^)」
ぼく「あ、そういえばごにょごにょごにょ(←ちょっと不明瞭になる)」
相手「はいぃ(真顔)?」
ぼく「あっ、すいません、えと、その、(あたふた)」
この流れです。よほど気心が知れた人なら別として、この突如的真顔的「はいぃ?」をやられた途端、一気に「すみません!こんなわたくしめが、貴方様とお言葉を交わさせていただいているにもかかわらず、何か失礼なことを申し上げましたでしょうか!?お許しください!!」と地面にひれ伏してしまうのです。
いえ、お相手に他意はないことは存じております。でも、その刹那は本当は存在しなくていい劣等感を感じてしまうのです。
自分がそのように感じるので、逆に僕が聞き返すときは、相手に無駄な劣等感を与えてはいけない、という強い気持ちで聞き返しています。その時の言葉は一通りではありません。「ごめんなさい、もう一度いいですか?」なのか、「えっ(^_^)?なんです(^_^)?」なのか、二人の関係性、立場の違い、年齢の違い等を考慮して、その場に最適なものを探しています。言葉は長くなる傾向にありますが、その手間は惜しみません。(決して、「はい?」と一言で聞き返す方が手間を惜しんでいるのだとは思っておりません。人それぞれです。悪しからず。)
これはほんの一例ですが、この例に限らず、誰でも会話や電話で(無意識に)気を使っているシーンが無数にあるはずです。長い電話や面談をした後、どっと疲れが出るのも当然ですよね。
自分も相手も全員AIだったら楽だな、って思いますね。
(つづく)
(青野雅之)
2018年7月9日月曜日
神様と仏様
以前、私は、静岡県焼津市生まれの焼津市育ちであることから、地元の焼津神社で祀られている倭建命(焼津神社では「日本武尊」と称しています。)に深い興味を抱き育ったと記させて頂きました。
そのような中、いろいろな資料を漁っていたところ、古くから日本人は神様と仏様を融合させていたことを知りました。よく私たちは、「神様仏様、助けて下さい」と祈ったり、「神も仏もないものか」と嘆き苦しんだりしますよね。また、結婚式は神前で、葬式は仏前で執り行うことが当然のことのようになっています。私たちは、人を救ってくれる存在としての神様と仏様を何となくまとめて捉えて表現しているわけです。このような外来の信仰や思想を何の抵抗もなく自らの文化の一部にしてしまう感性は、他国にも見られるものの日本人には特に顕著なようです。
その日本人の感性を理論的にまとめた本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と云う考え方を見つけました。これは、神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まった神仏習合を理論付けし、整合性を持たせた考え方と云うことで、平安時代に成立したとされています。この考え方で云うと、日本の土着の神々は、実は様々な仏尊(如来や菩薩など)の化身であるとのことです。つまり、真の姿は仏なのだが、日本人に分かり易いように仮の姿で現れたということだそうで、これを「権現」と称するのだそうです。
例えば、有名な八幡様(八幡大権現)は、阿弥陀如来の権現であり、天照大御神は大日如来、須佐乃男命は牛頭天王(ごずてんのう)であるとされています。
仏教は世界三大宗教の一つであり、伝わった先々の国で土着の信仰と融合し、独特な神の観念を醸成してグローバルな広がりを果たしてきたことは否めないのですが、日本では特に、日本人固有の感性と相俟って、独自の宗教観がより強く惹起されたようです。これは、日本人が誇れる優れた感性であり、文化であったと評されていました。
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