みなさん、寒い日が続いていますが如何お過ごしでしょうか。毎朝布団から出るのに時間が掛る私です。僅かな温かさを残す湯たんぽにしがみつきながら気合いを入れて抜け出す・・・。そんな日々です。もっと清々しく起きられたらいいのになぁ。何か良い方法があったら是非お教えください。
さてさて、みなさんは何か大切にしていることはありますか。モノでも、コトでも、信念でも、夢でも何でも、皆さんにもきっと譲れない大切な何かがあると思います。私の大切な何かの一つに、思考を巡らす時間があります。
みなさん、「生きているということは」という永六輔さんの作詞された詩をご存知ですか。
最近、この詩に込められた意味を考える時間を大切に過ごしています。そして想うこと。私は学生の頃、自分自身がこの世を去る時に後悔の残らない生き方をしたいって思っていました。でも年を重ねながら、大切な人を突然失うことを経験し、考えが変わってきました。いつ取り巻く誰かを失ってもその人との関係に後悔が残らないよう、明日ではなくて今この瞬間、しっかりその誰かと向き合っていきたい、そう思うようになりました。でもこの詩を何度も反芻していると、直接誰かと向き合うだけでなく、誰かから受けたものをまた誰かに繋ぐことで、誰かとしっかり向き合っていることになるのだなって気付かされました。そして日々の生活を省みる。
この自分なりの解釈をみつけて自己満足する時間が私の大切な何かの一つです。やっぱり私って変わっているかな・・・。皆さんの大切な何かはなんでしょう。
見城美妃
2017年1月19日木曜日
表情の剽窃
まっすぐな道を歩いていると、向こうからも人が歩いてくる。
たいてい、あぁ、ちょっといやだなぁ、と思いますね。
そりゃあ、顔見知りならまた別です。(と言って、必ずしも心安くなる場合ばかりではありませんがね。)
ただ、往来を歩いていて、向こうから人が歩いてくるとき、たいていは知らない人です。おじさんかもしれないし、若い女性かもしれない。こどもかもしれないね。
ちょっと断っておきますが、都会のビルの下なんかを想像しないでくださいね。あっちからもこっちからも人が歩いてきて、すれ違う数なんて数えてたらきりがない、こういうところの話ではないんです。
ほら、思い出してください。田舎の田んぼのあぜとか、川の堤防とか、工場の塀に面した通りとか、まっすぐに伸びた道の先、はるか数十メートル先から、じわじわと近づいてくる知らない人。辺りにはほかに生物の気配はない。
あれ、目線はどうすればいいんですかね?じっと見つめるのも変だけど、前方に向かって歩いていると、どうしたって視界には入るわけで。気付いてないフリをすればいいのかな?気付いているけどまったく気にしていないフリをすればいいのかな?でもすでに気にしてしまっているのでな。
このとき、相手を捕捉してから時間にすると1~2分ですかね?いろんなことを考えますね。あぁ、ちょっといやだなぁ、なにか良くない人じゃないといいなぁ、いや、向こうもそう思っているかな?暗い顔でメガネかけて俯いて歩いている30前後の男だからなぁ、若い女性は多少なりとも警戒しているだろうなぁ。いや、それでいいんですよ!?ちゃんと警戒するべきである!!もちろん僕はそんな狼藉はしないから、良かったですね、すれ違うのが僕で・・
なんて思いながら、用もないのに携帯なんか取り出してチェックしたりする。川面に浮かぶカモに急に見とれ始めたりする。
そうこうするうちに、いよいよ合流地点がくるわけです。このとき、やはりお顔を確認します。万が一知っている人かもしれないし。そういえば、あまり目が合うことはない気がするので、相手はあまり気にしていないのか、逆に意識的に目を逸らしているのか。
そしてそして、ここからがいよいよ本題なんですが、こうしてチラっと見た相手の表情を、なぜか私、瞬時に真似てしまうんです。眉間にしわを寄せているとこちらも寄せ、急いでいる顔をみるとこちらも急ぎ顔になり。
これは瞬時に。そんなことするつもりもないのに。そして一瞬後、なにやってんだ、と思いながら表情を戻すのです。
心理学的にいうと。わかりません、たぶんなんらかの説明があるでしょう、でも調べません。
実はこれ、だれかと話し合いをしているときにも同様の作用が生じているのではないかと考えています。ただ、統計的な分析はまだしておりませんので、そのうち。
以上です。
(青野雅之)
2017年1月12日木曜日
除夜の鐘
あけましておめでとうございます。
皆さんは、年末年始をいかが過ごされたでしょうか。年末年始の連続休暇も終わり、そろそろ仕事にも調子が出てきた頃ではないでしょうか。
さて、私が年末年始で気になったのが「除夜の鐘」の問題です。皆さんもテレビやネットで話題になったのでご存知だと思いますが、近隣の騒音等の迷惑を考慮して除夜の鐘を撞つかない、あるいは日中に鐘を撞くなどをする寺が出始めているとのことです。
たしかに夜中に鐘を鳴らされれば、その近くに住む人にとってはうるさく感じるかもしれません。私の住む近くの寺の鐘は、戦時中に金属資源の不足を補うため国に供出され、その後も設置されることなく今日を迎えているため、生音で除夜の鐘を聞く機会はありません。
私の近年の大晦日は、家族との夕食時に晩酌をして、しばらくの団欒の後に風呂に入って床に入り、新年のランニングに備えるという生活をしています。家族は夜遅くまで起きていますが、私は紅白歌合戦やその他のテレビ番組にも興味を持てないので早々に床に入ってしまいます。
しかし、私の住む焼津市 では、0時を過ぎた年明けと同時に相当数の花火が上るのです。「バン・バン・バン・バン・ババババーン」がしばらく続きます。深く眠りに入っていれば問題はないのですが、たいていの場合には花火で目が覚めてしまうことになるのです。花火を上げるのなら朝でも良さそうなものですが夜中に上げるのです。
まあ、それも年に1回のことであるし、おめでたいことでもあるので、苦情を言うこともなく笑って毎年過ごしているのです。外国では、年明けとともに花火やら爆竹を鳴らして大騒ぎをするところもありますので、文化の違いといえばそれまでです。
除夜の鐘を不快に思う人達には、それぞれ事情があることも理解します。音の問題・参拝者の交通事情や駐車場とマナーの問題など様々な問題が関係しているのかもしれません。
しかし、除夜の鐘は昨日今日始まったことではなく、ずっと永く続いてきた行事であり年に1回のことです。社会の中で共に暮らしていくためには、それぞれが少しずつ我慢して許しあうことも必要になります。ほかの人の多様な面を許す寛容なこころを持てない世の中になったのかと寂しい気持ちになった年末年始でした。
宮内豊文
2017年1月4日水曜日
土曜日の大晦日
朝起きて、テレビをつける。
見慣れたニュースは放送されていない。
「あぁ、今日は大みそかだった。」
顔を洗い、郵便受けから新聞を取り出す。新聞が妙に薄い。一面トップの見出しも直虎が実は男だったという学説に関するもの。やはり今日は大晦日に違いない。
しかし、食卓に並ぶ朝ごはんはいつものとおり。ごはんとみそ汁、漬物、つくだ煮の面々。老母との会話も口数少なく、それもいつものとおり。
身支度を整え、アパートを後にする。いつもの道を通り、事務所へ向かう。途中、刈田や農家の屋根に数えきれない鷺が立ち並ぶ。彼女らは身じろぐことなくこちらを覗っている。
事務所に着き、PCではなくテレビをつける。先送りにしていた真っ新な賀状に墨をつけていく。ベトナム語科のふなちゅうという名の同期に宛てて賀状を書く。彼とは、野球の練習の後、フランス語科のせきみほがいる店によく飯を食いに行った。店の名はフェアリー。せきみほのフラメンコにいくらつぎ込んだかわからない。一々そんなことを思い出しているせいか、賀状書きが進まない。普段忘れていることをつい思い出す。やはり今日は特別な日だ。
賀状書きに身が入らず、こたつに入って菓子パンをかじりながら、ぼんやりテレビを見る。前田吟が直虎の宣伝をしている。土曜スタジオパークだ。
「今日は土曜日か。」
そういえば、最近は平凡な日常を描いた小説や映画が愛おしい、前田吟を見てふと思う。
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「そういえば、古紙の駅に連れていく約束だった。」
思い立って老母に電話をかける。
「エビ食べたい。」
屈託ない老母の返事。エビとはずいぶん贅沢な話だ。しかし、生きている間でなければ親孝行もできない。いや、今日は大晦日だ。とにかくそれぐらいは許そう。
たいていの仕事は明日に回し、アパートへ戻ることにする。日はまだ高い。今日は土曜日の大晦日。日常と非日常が入り乱れた日。
(小楠 展央)
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