2014年6月26日木曜日

「いのち」の重み


 昨年、「全国中学生人権作文コンテスト」に入賞した静岡県内の中学生の作品を紹介します。

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祖父が胃ろうになったのはもう二年以上前のことだ。脳こうそくの発症から痴呆がひどくなり、(中略)最後に食べることもできなくなった。

医師から話があると言われ、祖母と母が、祖父が入院していた病院に駆け付けると、医師は「胃ろうにしますか、どうしますか。」と聞いた。母はその時初めて胃ろうにしないという選択があることを知り、「胃ろうにしないとどうなりますか。」と問い返した。すると医師は、「申し上げにくいですが、簡単に言うと徐々に体力が弱まります。栄養がとれないわけですから。」と答えた。祖母も母も胃ろうにしないという選択はできなかった。(中略)それから二年、祖父は生きている。

(中略)ただ眠ることしかできない祖父を見て、母は「胃ろうの選択をしたことが正しかったのか今でも分からない。お父さんをただ苦しめているだけなのかもしれない。」と言う。(中略)祖父にはもう脳の働きがほとんどないのだという。(中略)できるのは、そこにいて、ベッドに横になっていることだけだ。

祖父は今のこの姿を望んでいるのだろうか。幸せなんだろうか。はがゆい思いが沸き上がるけれど、母も祖母も結論が出せなかったように、私にもこの問題は重すぎて、答えを導き出すことができない。

祖父をもはや人でないと言ってしまうのは簡単だ。でも家族はそうは思えない。祖父は祖母が来たことなんて分からないのに、祖母は二日に一回は祖父のもとへ通い、のびたひげをそり、歯をみがき、耳のそうじをして「また来るからね。」と言って帰る。何も分からなくなり、何も言わないけれど、祖父は家族にとって祖父なのだと思う。

しかしその一方で、祖母は「私は胃ろうにしないで。」と言う。「頑張って生きてきたから、自分の力で生きられなくなったら、それでもう十分。自分が自分だと分からないのに生きていても、なんだか間違っている気がするんだよね。」

祖父には胃ろうを選択し、自らは嫌という祖母。祖母にとっても祖父の「いのち」は大切すぎて、自分の意志ではその終わりを決めることなどできないのだと思う。その一方で祖父の人としての尊厳は守られていると思えない。

大切なのは祖父の意志だったのかもしれない。しかし祖父の意志はもう聞くことができない。母は、「お父さんはきっとこんな管はずしてくれと言うだろうな。」と言うけれど、

「でもね、お父さんの本当の気持ち、死を目の前にした時の気持ち、お父さんにだって元気なうちは分からなかったんじゃないのかな。」

「いのち」の重み、「いのち」の大切さ。人としての在り方の難しさ。言葉だけではなくて、祖父は「いのち」の持つ苦しみや悲しさ、それを含めた重みを教えてくれた。私は今でも祖父が幸せなのかどうなのかは分からない。でも祖父の「いのち」のある限り、その重みのつらさに向き合っていくことが、今私にできる人としての在り方だと心から思っている。

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 この作品を読んで思わず目頭が熱くなってしまった。私たちがいつも行く療養病院などでよく見かける光景だ。「家族」として、管で命がつながっている祖父を見て、この中学生は「いのちの重み」を感じ、これからも向き合っていくという。

 自分たち大人も家族が同じような場面に遭遇したとき、果たしてこの状況、この問題に向き合っていけるのだろうか。仕事を言い訳にして逃げてしまわないだろうか。そんなことを考えています。

池谷道男

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