2015年9月17日木曜日

何故話し合うの?





    
                                                            
9月6日、「法と教育学会~子供の法意識・法知識と法教育」が早稲田大学で開催されました。
私は、小学校~高校における様々な法教育の研究・実践を発表する分科会に参加しました。実際におこった事案を題材に、異世代の意見の相違を確しどう考えていくかで話し合った事例等が発表されました。

 一例をあげます。
所沢市での住民投票となった、学校にエアコンはいるのか?の事案

   大人の意見:   子供は(暑さ)我慢するものだ。
              私たちはそうしてきた。
               税金の無駄遣い。
               子どもは外で遊ぶものだ。

   子どもの意見:  入間基地の騒音がうるさくて、勉強に集中できない。
                    学校は勉強するところだ(快適な環境)。
                    子どもには、我慢させて、大人はどうなんだ?

話合い後の感想:答えを出すことが大事なのではない。
       話し合うためのルールに気づくことで、円滑に話合
       いができる。
       自分たちがどのような立場に置かれているかを理解
       できの立場についても理解できる。
      

        
 答えを出すための話合いから、何故私たち話し合っているの?と視点が変化し、互いを理解しようすることが、問題解決の入口なのだなと感じました。それぞれの立場で、一つの問題も違う見え方となりますが、相手の考えや思いを知ることで、景色が変わってくるのでしょうね。
まさしく、ふらっとの趣旨ですね。

「私たち、何故話し合うの?」と問い直してみたら日々の景色も変わるかな?

「法と教育学会」は、小・中・高等学校における法教育、大学法学部における法学教育、法科大学院・司法研修所における法曹教育、そして法律専門家に対する研修・教育のあり方について総合的に研究し、 それを教育の現場で実践するため、法学、教育学またはこれらの関連分野における研究 もしくは実務に携わる方の研究上の連絡・協力を促進することを目的とした学会です。 (法と教区学会のHPより)
                                      2015.9.17 御室

2015年9月12日土曜日

手段か中身か

20年ほど昔のことですが、とある新聞社の就職説明会に参加したときのこと。

その頃はまだ、現在ほどインターネットが普及しておらず、

それどころか携帯電話もPHSが主流で、2人に1人もってるかどうかという時代でした。


んで、その場で新聞社のお偉いさんはこう仰るわけですね

「最近、インターネットだの電子メールだの、携帯電話などというものが流行っているが

あんなものは血が通っていない、温かみがない、人間的ではない」、と。


それは、新しいメディアに対する本能的な嫌悪感や警戒感であったのでしょうか。

現在、インターネット掲示板やツイッター、facebookはテレビや新聞の影響力を

脅かすような勢いで成長しています。


しかしその一方で、私自身も似たようなことは感じていました。

「メールで気持ちが伝わるんだろうか」


そんな ことを考えていたことを思い出す記事を、最近インターネットで見つけました。

インディアナ大学の研究者たちが、好きな人への告白において

SNS、電子メール、ボイスメール(留守電)のどれが効果的なのかと。


私は、その中だったら、留守電がいいだろうなと思ったのですが

結果は「電子メールが一番効果的だった」というものでした。

メールは送信する前に念入りに推敲されるのが

想いを伝えるのに効果的だったのではないか、

と分析されていました。


被験者が18歳前後という若者中心だったということも

このような結果となった要因なのでしょう。

幼いころからメールを使う機会があったでしょうから。



コミュニケーションは時代と共に手段が変わっていく。


でも、肝心なのは伝えようとする中身であることは変わらない。

年寄りみたいな感想ですが、オッサンなので仕方ないですね。


調停員 竹下

2015年9月8日火曜日

 最近、囲碁の勉強をしています。

 時々、インターネットで囲碁ソフトを相手に打つことがありますが、私の棋力では簡単に囲碁ソフトに負かされてしまいます。
 将棋ではプロ棋士とコンピューターが互角に戦えるようですが、囲碁の世界ではまだまだプロ棋士が強く、コンピューターはハンデをもらっているようです。

 囲碁のソフトが将棋のソフトと違いまだまだプロに勝てない理由の一つに、指し方や状況を判断するための評価関数が作りづらいことがあげられるようです。
 将棋ではそれぞれの駒の価値が違うためその評価をしやすいことと、相手の王を取るという目標が明確なので、評価関数が作りやすいとのこと。
 囲碁では、石の価値はどの石も同じですが、石を置く場所やタイミングでその石の価値が変わり評価をしづらいとのこと。

 囲碁で使用するのは黒と白のただの石。どの石も価値は同じ。でも、石を置く場所やタイミングでその石が輝きを放ったり、価値が無かったり。
 
言葉も同じで、全く同じ言葉でも、その言葉が発せられた状況やタイミングで輝きを放ったりするのではないかと思いました。
 
 
渡 辺 卓 也




2015年8月29日土曜日

肩狐狸庵ICHIの「あの日見たマークの名前を僕たちはまだ知らない」


私の庵(事務所)は、静岡県東部の中核都市、

富士市の閑静な住宅街の端にある。

 

私自身、慌ただしい日常から脱しようと

海外に足を延ばすときがある。

 

ただ、バスや電車、地下鉄など地域の公共機関を

利用したときに目に入ってくる人々の風景は、

実際、日本で見る風景とあまり変わらない。

 

まるで何かにコントロールされているかのように

自らの手の中(スマホ)を凝視している若者が

その場に自分だけの空間を作っている風景は

何処の国も同じと感じる。スマホ恐るべし!




 

さて、今回アジアのある国に出向いたとき、

日頃目にしていなかった「HALAL」という

マークを、レストラン、スーパーの店先、お菓子や

飲み物などのパッケージに見つけた。

 

ご存知の方も多いと思うが、「HALAL」は

イスラム教において合法的なもという意味で、

食品に関していえば、ムスリムの人が食べても

大丈夫というだけでなく、ムスリム以外でも

清潔で健康的な「HALAL」食品は良いもので

あることには変わりない。

 

確かに変わらないといった風景以上に

日本では見ない多民族で構成されるアジアの

国々は、互いにその価値観、認識の違いを

理解したうえで、共存共栄の道を歩いているようだ。

 




 

単一民族(諸説あり)といわれ、言わなくても

分かり合えると豪語していた日本とは違い

分からないからこそ理解しようという姿勢が

その国には伺われた。

 

かの大国も自らの思想を押し付けるのではなく

お互いを理解しようとすれば、この世界も

もっと平和になっていたのではと個人的に思う。

 

だが、「言わなくともわかりあえる」と言っていた

我が国も、現在では矢張り、話さなければ

分かり合えない社会になってきている。

 

それでも話し合うことが出来れば、

まだまだ我が国は互いを十分理解できる

土壌は存在しているし、そのような場を

例えば“ふらっと”のように提供している組織もある。

 







 

それにしても気にしだすと「HALAL」

マークは何処にでもあり、気にしなくても

アジアの大国の旅行者は騒がしくいる。

 

…あっ、「HALAL」マーク見っけ!

…「見っかっちゃった。(byHALAL)」

 

分かる人には分かるオチだが、

必要であれば話し合いましょうか。

 

2015年8月20日木曜日

フューチャーセンター@司法書士会館

昨日、青年司法書士協議会主催で、県立大学の学生さんを招き、フューチャーセンター「司法書士をもっと身近に感じてもらうためには」を開催しました。

フューチャーセンター(FC)とは、組織の中長期的課題をオープンイノベーションを目指して、話し合いによって新しいアイデアを見つけ出していくものです。

常葉大学の学生さんや社会人の方も加わっていただき、とても楽しいセッションでした。

私もそうなんですが、司法書士は頭が硬くなりがちなので、まじめにちゃんとやろうとしすぎてしまいます。ただ、それだとやはり息が詰まるんですよね・・・。

新しいアイデアを出すときには、まずは質より量。そして、自分と立場が違う人の話に耳を傾ける、この作業が大切なんだなと思いました。

ふらっとやメディエーションの普及活動に、このFCは使えますぞ!

追伸
常葉大学の学生さんが、メディエーションにとっても興味をもってました。大学生の力借りて発信していくのもいいですね!!

                                                 事務長 佐藤麻妃

2015年8月13日木曜日

言葉の発達


こんにちは。

運営委員の井上史人です。

私には、2歳半の子供がいて、今、いろいろな言葉を急速に覚えています。

両親の私たちもびっくりするほど、その場面に的確な言葉を発っするときもあり、あるときは驚かされ、あるときは、妻と爆笑してしまうこともあります。

先日お世話になっている会計事務所の事務員さんがいらっしゃって、その事務員さんにも同世代の子がいるため、前述のような話をしていたら、その事務員さんの3番目のお子さんは、まだ、言葉がうまく話せないときに、2番目のお子さんが何でも先回りで察知して手助けしてしまったため、3番目のお子さんの言葉の発達がかなり遅かったということを聞かれました。

その話を聞いたとき、言葉(コミュニケーション能力)は、自分の思いや考えを上手く伝えられないことによるストレスによって、上達するのだなということに気が付きました。

それからは、子供が何をしてほしいのかよくわからないときでも、あえて推測で考えを読み取ろうとはせず、「何がしてほしいのかきちんと言葉で話してごらん」と、話をさせるようにしています。

ふと、これは調停の場面でも通じるものがあるなと思いました。

先日の事例検討会に出席したとき、ある方が「いい調停とは、調停人ががんばりすぎない調停である。むしろ、調停人には任せておけないから当事者自身がかんばらなくてはと思う位がちょうどいい」という趣旨のことを言っていました。

どんな場面でも、他人に任せておけないという状況が人を育てるのでしょうね。

2015年8月7日金曜日

ふらっとに求められているものは・・・???

 センター長の小澤です。
 ここのところ、裁判所における調停事件に関与することが多くなっています。
 簡易裁判所における民事調停の代理人として期日に出頭したり、家庭裁判所における家事調停事件に遺言執行者の立場で期日に出頭したり。
 また、簡易裁判所における民事訴訟においても、期日において、和解交渉をする機会も少なくありません。
 さらに言えば、いわゆる当事者支援として、調停申立書の作成という形でかかわることもあります。
 共通するのは、いずれも裁判所の中で行われているという点です。
 裁判所によって選任された調停委員2名が、当事者周双方の話を聴き、合意点を見出します。
裁判所で行う話し合いの手続ですので、訴訟に比べて、一般の方にも利用しやすくなっていますし、裁判所という信頼の厚い機関で実施されることから、需要も高いわけであります。

 一方、現在、最高裁は、民事調停の機能強化を掲げております。
 これは、民事調停事件の減少が背景にあるわけですが、次のようなこともふれられています。
 すなわち、裁判外の紛争解決機関、このふらっともその一つでありますが、そのようなADR機関の増加により、裁判所の調停ではなく、ADR機関による紛争解決が行われている事件も相当数ある現状において、裁判所の民事調停に求められている機能は何か、利用者である市民が裁判所に求める機能は何か・・・というようなことであります。。
 ひとつの大きなニーズとして、裁判所の主導による公正なジャッジというものがあげられましょう。
乱暴な言い方かもしれませんが、一部の事件における調停を訴訟に近づけるイメージでしょうか。

 さて、では、ふらっとのような民間のADRセンターに求められるものは何か?
 裁判所には無くて、ふらっとにはあるものは何か?
 常にそれを考え、少しづつでも実践し、よりよい方向に変化することによって、徐々に、ふらっとが市民に認知されていくのだろうと考えているところです。