2016年2月21日日曜日

深い河

 
某テレビ局で、ザック・エブラヒムを特集した番組がありました。「テロリストの息子」(朝日出版2015年)という本の著者としてごぞんじの方もいらっしゃるでしょう。彼の父はアメリカで1993年の世界貿易センターの爆破計画に関わっていました。そのため彼を含む家族は追われるように住居を転々とするのですが、テロリストの家族(人種差別も)として、迫害やいじめにあい自殺も考えたと。彼がその不条理にどのように向きあっていったのか、父親の取った暴力とは異なる選択をした思いが伝わってきました。
 
宗教や人種における偏見、差別、自分が優越である他者は劣っているという力の強弱のレッテル、相容れない他者への不寛容、社会からの排除、善と悪の分離、富への追及、これらを原因とする紛争は絶えることなく存在し、暴力の連鎖という形で繰り返されています。
 
私たちは、話をします。自分を知ってほしい、あなたを知りたい、感情を伝えたい、目的達成のために共感し手順を確認するため、実に様々な思いをもって私たちは会話をします。年齢、性別、国籍、信仰、信念、能力、感性等が異なっていても、私たちは会話をすることができます。その根底には、「私が話すことをあなたは聞いてね、あなたの話すことを私も聞くから」という相互性と、「私とあなたは異なる人格であるけれどあなたという存在を尊重するよ」という独立性の深い河が流れているのだと思います。
 
自分の意見を押し付けたり、話の分かる人とだけ話して、話の分からない相手は排除したり、話したんだからもういいだろと勝手な思い込みをしたり、結論を押し付けるためにする話合いは会話とは言えないのではないでしょうか。
 
 相対する意見を持つ他者や敵対する他者に対して、自分の主張を通すために話合いを利用するならば、それは、相手を自分とは異なる価値観を持つ独立した存在であることをないがしろにし、尊重しているとはいえず、一方的に攻撃、否定する暴力的な対応となるのでしょう。
 
私たちは、人が日常の中で変化(良いことも悪いことも)が生じて困った事態に直面したときに、相談を受ける立場にあります。相手の話をちゃんと聴いているか、相手を尊重した言葉使いをしているか(相手を見下したりため口になっていないか)、相手によって態度を変えていないか、今一度自分を顧みたい今日この頃です。


御室
 
 
 

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