2018年2月9日金曜日

私の祖母

私の祖母は20年ぐらい前に亡くなりました。孫の私にとっては気楽な人でした。先日、祖母が残した手記が見つかりました。満州から引き揚げてくる道中のことを書いたものでした

「山の上に軍人らしい日本人がいるとの話を聞いてソ連兵が飛んで来て「戦いに使用するものがあるだろう。出すように。もし探して出てきたときには全員撃ち殺す」と機関銃をバリバリ撃ち始めた。」

「次の日夜十二時ころ、周辺の部落の暴民が馬に乗って略奪に来た。…翌晩も十二時ごろになるとまた襲ってきた。私達は子供を連れて草むらに潜んで逃げた。運悪く梅村さんの子供さんが脱腸で痛みが激しく、大きい声をあげるので、聞こえるのを恐れてお母さんが子供さんを布団に包んで逃げた。馬賊が引き揚げたので子供のそばに戻り布団から出したところ、子供さんは息絶えてしまっていた。

「日の丸の旗が子供のパンツに使用されているのを見た時は、とてもやりきれない気分でした。負けたというのは惨めなもの、いつも小さくなって過ごしてきた。」

「朝早くから、表が騒がしく何かと思って外に出ると、台の上に日本の男の人が立っている。回りには沢山の外国人。…年をとった外国人が「スーラ、スーラ。」と叫ぶ。…間もなく「ダダーン」とピストルの音がして台上の日本人郵便局長は倒れた。外国人が台上にかけ上がり、着ているものは勿論下帯まで持ち去った。この肉親の惨劇を目の前にした局長さんの奥さんは、この様子に気が転倒したのでしょう。二人の男の子を残して山に逃げてしまったままついに帰って来なかった。子供のためにも一緒に強く生き抜いてほしかった。

「ある奥さんがお産をしたが、乳が出ず他に与えるものがない。赤ちゃんが日増しに小さくなっていく。私は見ておれず砂糖でもあったらと町へ出た。どこへ行っても日本人には売ってくれない。途端に外国の兵隊につかまってしまって時計をとられそうになった。…ようやく釈放されて宿舎に戻った。急いで赤ちゃんのところへ行ってみると死んでしまっていた。お母さんが乳の出ない乳房をつくづく見ていた。親の愛情を与えることが出来なく冷たくなった子供をいつまでも抱えて離さなかった。」

一人の工員さんがしきりと鏡を見ていた。鏡の中に遠い日本の姿を求めているようだった。手を握ってあげた。やせた冷たい手だった。その夜遠いところへ旅立ってしまった。そっと鏡を持たしてあげた。

外国の女の兵隊が日本人を並べて持ち物を調べていた。私達の前に来て子供が持っている人形を見て「アイヤ―テンハオ…」と言って取り上げられた。驚いたが子供は声一つ出さず私の顔を見た。私は「日本に帰るともっと大きなのを作ってあげるからね」と言って納得させたが、納得出来ないのは私の方で、あの人形にはありったけのお金が入っているのにこれから先どうしたら良いやらと思っていた矢先、突然大きいピストルの音がして男の人が倒れた。風呂敷包みを取られそうになり手を出したためで、撃ったのは先ほど子供の手から人形を取り上げた兵隊だった。

「中国人の子供が「シンジョウ、シンジョウ」と言って子供に何か持たしてくれた。お金だった。たとえ少なくとも、心が有難く「シェシェ」と何度もお礼を言って別れたが、思わぬ嬉しい贈り物に、この子供達が大きくなった時には、手を取りあって仲良く行けるようになるだろうと、明るい気分になって足の痛みも忘れて歩きつづけた。口が乾いたので川の水をすくって飲んだ。少し上の方で豚を洗っていた。」

「お金がないから何も買うことが出来ない。中国人の家に洗濯に出掛けた。出るときはいつも子供と二人で行くようにした。ある日訪れた家は前に日本人が住んでいたらしく日本の下駄が隅の方においてあったのが哀れであった。この家の奥さんが気の毒だと、私たちを食堂に案内してくれて真白いご飯をお皿一杯出してくれた。子供は驚いた様子で久しぶりの白いご飯に飛んで行って手づかみで食べはじめた。私は悲しくて涙が出た。こうなったのも戦争のためだ。…表に出た。子供の欲しがった「りんごと豆腐」を買って帰った。子供は「あしたもまた今日の家に洗濯に行こう」と言ったが…「あしたは休みたい」と言ってその場を繕った。

 祖母は、私の母を連れて、終戦の翌年、昭和21年10月20日に佐世保港に着いたそうです。焼け野原の広島を通り、故郷の浜松に帰った後も、どうも苦労は続いたようで・・・。母からの伝聞ですが、床の上でご飯を食べる祖父(祖母の夫ですね。)の家族とは別に土間に座ってご飯を食べたり、私の母の給食費を借りに姉の嫁ぎ先に行ったときに「お前に貸す金はない。」と断られたりしたそうです。

 本当、ご苦労様でした。私だったら耐えられそうもないかな。でも、繰り返しになりますが、私の知っている祖母は気楽な人でした。外国人から耐え難い屈辱も受けたでしょうに、笑い話はしても、恨めしいことは何もいいませんでした。
ここまで書いてきて、ふと酒井さんの奥さんのことが思い出されました。話の流れで奥さんが掃除をしない、ご飯を作るのが面倒という話になったとき、「掃除しなくても死なないら。一日ぐらい食べなくても死なないら。」と笑っていっていたような・・・。

小楠

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