2018年6月20日水曜日

「経験値」と「関係性」と「距離感」


皆さん、昨夜のワールドカップ「日本VSコロンビア」は、久々に楽しくワクワク・ドキドキでしたよね。私はサッカーファンというわけではありませんが、ワールドカップは見てしまいますよね。

タイトルの「経験値」と「関係性」と「距離感」ですが、これらのキーワードを使って「日本VSコロンビア」について語ろうというわけではありません。

最近テレビを見ていて(聞いていて)気になる言葉が「経験値」と「関係性」と「距離感」です。サッカー解説者が良く使う言葉ですが、例えば「ワールドカップではゴールキーパー川島の経験が生きるでしょうね」とか「香川と乾の関係が重要になりますよね」「選手と選手との距離が大事になりますよね」とか使うのですが気になって仕方がありません。

「経験値」は経験の値ですから、あえて使うとしたら「川島は経験値が高いので、ワールドカップのような戦いでは頼りになる存在ですね」という風に使うのが正しいでしょう。

「関係性」については、いつ頃からこんな言葉を使うようになったか知りませんが、関係の性質って何?っていう感じです。ストレートに「関係」と言えば良いものをなぜか不必要な「性」をつけるのです。日常的にこの言葉を使う人は少なくない様に思います。

「距離感」については距離の感覚ですから、この場合に大事なのは感覚ではなく「距離」そのもので、感覚に惑わされるからミスを犯すのです。

先の例で言えば、「ワールドカップではゴールキーパー川島の経験が生きるでしょうね」「香川と乾の関係が重要になりますよね」「選手と選手の距離が大事になりますよね」と言えば良いのにと常々思っています。

「経験」よりも「経験値」、「関係」よりも「関係性」、「距離」よりも「距離感」と言った方が言葉の語呂が良いのかもしれませんが、もっとストレートに言葉は使うべきだと思います。「でも、お前の言葉も変だよ」と言われそうなので今回はこのあたりで終わりにしようと思います。
宮内豊文

2018年6月13日水曜日

思えば対話をしてこなかった

 私は、大学でも野球をした。高校生ならいざ知らず、大学生ともなれば、プロ野球のように相手チームや審判と対話をしながら試合を楽しんでもよさそうなものである。しかし、高校野球の経験、いや少年野球のそれがわざわいしてか、彼らと対話を楽しむことはなかった。今の私なら、もっと野球を楽しむことができただろうに。垂れた胸と突き出た腹を眺めながらつくづくそう思う。

 読者の皆さんは適格消費者団体をご存じだろうか。所管庁の言葉を借りれば「不特定かつ多数の消費者の利益を擁護するために差止請求権を行使する(中略)適格性を有すると内閣総理大臣の認定を受けた法人」のことである。
この6月、静岡にこの適格消費者団体を目指すNPO法人が設立された。消費者はもちろん、学者、弁護士、司法書士、消費生活相談員など、様々なバックグランドを有する者が会員となり、事業者による不当な勧誘、不当な契約条項、不当な広告表示などについて、その是正を求める活動を行っていくことになる。
さて、この適格消費者団体、事業者に対し、その不当勧誘等の差止請求訴訟をすることから、まるで水戸黄門のような、問答無用の存在に思えるかもしれない。もちろん、そのような結果に見えるケースもあろう。しかし、実際には、事業者との対話を重要視している、あるいは重要視せざるを得ない。強権に近い力を与えられた者の自制、ということもできようか。

 つい先日、消費者契約法の改正法が成立した。いわゆるデート商法対策など、新たな不当勧誘行為・契約取消規定が追加された。成年年齢の引下げが現実味を増す中、若年者の契約トラブルへの対策の一つとして、この改正法が威力を発揮することを願ってやまない。
 ところで、法改正がなされる際、決まってパブリックコメントが行われる。つまり、為政者が考えている立法の方向性について、大衆から意見を募るのである。上述の消費者契約法の改正についても、昨年、パブリックコメントが行われた。このパブリックコメント、その制度趣旨を考慮すれば、いかにも為政者と大衆との間の対話のように思えてならない。しかし、本当にそうであろうか。
 実は、昨年実施された消費者契約法改正に関するパブリックコメント、なぜか賛否の数が公表されていないので定かではないが、おそらく改正に反対する意見の方が大多数だったと思われる。それにもかかわらず、今国会に提出されたのは、ほぼ為政者が考えたとおりの法案だったのである。

 問答無用のように見えて実は対話を重んじかつ実践する、対話をするかのように見えて実は相手の意見を聞くつもりがない。人生経験の浅いうちは、この妙味に気づかないかもしれない。いろいろな駆け引きの経験を通じて、この妙味を味わうことができるようになるのだろう。

 そういえば、高校3年生の今頃、ノーアウト2,3塁でバッターボックスに入り、直球で追い込まれた後、静学のキャッチャーが「次、カーブ行くぜ。」とささやいたことを思い出した。今の私なら、きっとそのキャッチャーとの対話を楽しめただろうに。

 小楠

2018年6月3日日曜日

どう解く?


こんな物語があります。
・腕はいいが、あまり売れない手品師がいた。
・手品師は、大劇場のステージに立てる日が来るのを願って腕を磨いていた。
・ある日、手品師は、道端で小さな男の子と出会い、手品を披露する。そして次の日も見せてあげると約束した。
・その日の夜、手品師に、明日、大劇場に出られるチャンスが舞い込む。
・しかし、手品師は、男の子との約束を優先して、大劇場に出られるチャンスを断った。


さて、みなさん。
    大劇場のステージに立てる日を夢見て練習する手品師の気持ちを考えてみましょう。
    男の子との約束を優先した手品師の気持ちを考えてみましょう。
    手品師の行動を振り返って、自分のこれからの生活に活かせることは何でしょうか。

できましたか? それでは、こんな設問はいかがでしょう。
    手品師はどうして大舞台を断って男の子のもとへいったのでしょうか。
    手品師が大舞台を断って自分のところへ来たと知った男の子はどう思うでしょうか。
    もし、あなたが手品師の立場だったら、どういう行動をするでしょうか。
    手品師も男の子も、どちらもよい結果となる方法はなかったのでしょうか。
    「誠実」とは、どういうことでしょうか。

新学習指導要領において、小中学校における道徳の授業が「特別の教科」になることは、みなさんご存知ですか。「教科」というと、国語や算数のように数値による評価がされそうですが、道徳は数値などによる評価はなじまないと考えられることから、「特別の教科」という枠組みで実施されることになりました。

ちなみに、学習指導要領の改訂は、小学校は平成32年度から全面実施、中学校は平成33年度から全面実施されますが、道徳の教科化については、小学校は30年度から、中学校は31年度から前倒しで全面実施されます。

みなさんが受けた道徳の授業を思い出してみてください。
「リアリティがない」「予定調和」「退屈」・・こんな言葉が浮かんでくるのではないでしょうか。
これまでの道徳の授業はというと、ある物語を紹介し、主人公の行いが正しいことを前提として、例えば上記の例でいえば、①~③のような設問を通して、「誠実」という価値に収斂する授業であったようです。
それが、今般の「特別の教科」化に伴い、「考え、議論する道徳」へ質的転換がなされるということをある教育通のかたから伺いました。例えば、上記の例の④~⑧のような設問を通して、「誠実にもいろいろな形があり、相手のことだけを考えて行動することが必ずしも誠実とは限らない。」「誠実とは、自分または相手が一方的に犠牲になって叶えるものではなく、お互いにとってよい方法を考えることが「誠実」につながると考える。」「約束の中身をしっかり考え、さらに自分や相手の状況を踏まえて結論を出すことが重要ではないか。」など、物事を多面的・多角的に考えたり、自分ごととして考える授業になるというのです。

私はこの説明を受けて、マイケル・サンデルの対話型授業の風景が浮かびました。新学習指導要領が示すこんな授業が経験できたら、道徳の授業は、生きるうえで大切なことを教えてくれる、素晴らしい時間になることでしょう。

“ふらっと”の理念と共通するところが多々あると思い、道徳が「特別の教科」になることについて紹介させていただきました。

増田真也